エアポケット

Kindle端末から目を上げる。

少し薄暗いような照明。席は半分埋まっているかいないかくらい。目配りする店員はいない。

最寄駅の一つ手前、駅前の通りから一つズレたところで見かけた喫茶店は、メニューは少なめだけど、騒がしくなく落ち着いた空間が、まあ悪くないと思えた。

金曜の夜、家に帰る前に、少しだけ自分の時間を求めて選んだ店は、正解だったみたいだ。

小説を読み始めると周りが見えなくなる。まるで時間が飛んだみたいに過ごせるひとときは、今の私にとって貴重な休息。

ああ、帰りの時間を忘れないようにアラームをかけておかないと。

スマホを手に取ると、通知が溜まっている。

会社で使っている連絡ツールに目がいって、無視もできずに立ち上げた。

別に勤務時間外だから義務はないのだけれど。気がついてしまったら、そのままにはできない。

『これも追加でお願いします。なるべく早くで。』

来週朝イチの仕事のリストが頭をよぎるけれど、Todoの組み立てをしそうになるのを目を瞑って止める。

会社のことは会社で。

それでも読む前には戻れないわけで、私の脳内にぺたりと付箋が貼られた感覚は抜けない。

ツールを閉じて、まだ未読のマークがついているのに気がつく。あれ、と再度開いてみると、今さっき読んだ発言に既読がついていない。

ツール閉じる。まだ未読ついてる。開いてタップしても、やっぱり未読のまま。

バグかな。考えるのを放棄して、今度はスマホの画面ごと閉じる。

バグなら私は悪くないよね。

もうツールは見ないことにした。

忘れないうちにアラームをセットしてから、Kindle端末を手に取り、続きを読み始める。

半分くらいまで読み進んだ。

今まで何度か読んだはずなのに、やっぱり犯人が誰だったか思い出せない。毎回面白いからいいんだけど。

ふとテーブルを見れば、注文した珈琲が置いてあった。

店員が来たのに気づかなかったのか。イヤホンをしていたから、そっと置いていってくれたのかもしれない。

kindleをテーブルに伏せて、カップを手に取る。

ふぅふぅと息を吹きかけ、一口含む。程よくぬるくて、猫舌の私にはちょうどよかった。

目を上げれば、店内の客数が半減している。

一人客が綺麗に間隔をあけて席についているのを見ると、同類さんかなと思う。仕事帰りに、珈琲一杯分だけの、自分の時間を味わっている人たち。

資格の勉強をしている。動画を見ている。ゲームしてる。編み物をしている。手帳を書き込んでいる。

束の間の自由時間。豊かな時は、ほんの少し。

時計を見ると、もう少しだけ、余裕がありそうだった。

ゆっくりと珈琲を飲みながら、ため息を何度か。

惜しむようにもう一度kindle画面に目を戻した。

小説はもう少しでクライマックス。最後の2人になった。どっちも犯人じゃなさそうだけど、一体誰が犯人だっけ。

こういう時、紙の本ならラストシーンだけさらっと先に読んで、回答を得てから安心して続きを読んだりするのだけれど、kindleはパラパラめくれないのがちょっとだけ不便。

そういえばそろそろ時間じゃないかと時計を見ると、アラームの時間はとうに過ぎていた。

猫のチャームを揺らしながら慌ててバッグを引き寄せて、同時に、忘れていた珈琲に手を伸ばす。残すのは勿体無い。

冷め切っていると分かっていても息を吹きかけてしまうのは、もう癖だ。急いで大きく飲み込もうとして気づく。

あたたかい。

わからないけれど、さっき飲んだ時と同じくらいの温度に感じる。

一気に飲めない程じゃない、お腹が温まるちょうど良いぬるさ。

店内の客は誰もいなくなっていた。店員までも。

周りを見渡した途端、辺りの暗さがぐんと増す。

窓から入るネオンの光、車のライトが差し込んで消えていく。

意味がわからなくて、時計をもう一度見てみたら、真夜中12時を指していた。

すとんと席に腰を下ろして、うっかりコーヒーをこぼしそうになる。

窓のカーテンは半開きだ。椅子はところどころテーブルに上げられて、カウンターの奥には布巾がかかっている。

閉店、してる?

慌てて振り向けば、入り口のシャッターだけはしっかり閉まっていた。

引っこ抜くようにイヤホンを外す。音はない。痛いくらいに、静か。

誰か、と揺れる視線を流せば、飾り棚のコーヒーカップが目に入る。星空に月。深海に潜る魚。

違うよ、ここは夜の底じゃない。だから私は空気の海に溺れたりもしない。

ただ、冷えても、温かくもなくて、すごく、すごく薄くなってるだけ。

私はここにいる?

店内を見まわしても何もわからなくて、だからって立ち上がって辺りを見に行くような勇気もなくて、私は逃げ込むようにkindleの世界に戻ろうとした。

文字の上を視線が滑る。それでも最後まで読み終わってしまうから、途方に暮れてしまう。

そして、誰もいなくなった。

そうだよ、ここも誰もいないよ。

でも犯人はわかった。

理由があって、原因があって、全部答え合わせされて、小説の世界は完結して閉じられた。

ああ、切り取られた世界は安全できれい。

今の私は?

落ち着きたくて、珈琲をのむ。それはやっぱり、同じぬるさで。

かちゃり。

わざと音を立ててソーサーに戻す。音にも色ってあるよね。

勢いをつけて立ち上がってみる。

顔を上げて、店を歩いてみようか。

これが本当でも嘘でも、私がいなくてもいても、ここはある、んだよねきっと。

靴音はちゃんと聞こえる。

だから、かな、余計に静かだよ。

目についた場所まで行ってみる。

狭い店内は、入った時から少し薄暗かったから、奥のほうはよく見えない。

無言で席に戻る。

目を閉じる。手探りでイヤホンを再び付ける。

伏せていたkindleを持ち上げて、とにかく長い長い小説を探した。

身体を忘れるくらいの世界じゃないと、ここはもう、ダメだ。

虐げられた家族から逃れて、何度も窮地に陥っては助けられ、成長して世界を救うような英雄になって、かけがえのない仲間ができて、七冊目で完結にたどり着いた。大冒険を終えて、満足して、肺の中から全部の空気をだすかのように息を吐く。

ああ、良かった。面白かった。

月並みだけれど、ドキドキしてハラハラして、小説世界の手触りがまだここにある。余韻がすごい。

こんなに、最初から最後までどっぷりと読み込んだのはいつぶりだろう。ほんと何年ぶり?

ああ、まだ、勇者が抜けない。

少し耳が痛くなったような気がして、イヤホンを外す。

『お待たせしました』

飛び込んできた声に、反射的に頭を上げて。

少し薄暗いような店内。おひとり様がぽつりぽつり。店員はカウンターに背を向けて話している人もいて。

入り口からベルの音がする。

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